2018年5月アーカイブ

思考は現実化する」とある自己啓発書は教えてきた。
もちろん、僕もそのことを指針に様々なことを行いなし得てきた。

「それって何よ」とのお声も耳に感じるのでお答えすれば、それは駄作ながら二冊の本を世に出したり、大学受験などを失敗に追いやり人生の進路を大幅に阻むほど苦手だった英文読解を50代後半でできる様になれたりしたことだ。


それからして、思考つまり言葉にしたことは現実化する、そのこと自体が僕をして現実化たらしめている。加えて、そうすることが当たり前である皆さんの多くにもこれまでご縁があった。

そうした方々に共通する事は、思考は現実化するように、現実化したいことをやればできる事に細分化して、やればできる事だからとして確実にコツコツとやり遂げ続けていらっしゃる。

すると、思考は現実化することについてご存じと拝察できて多いに寄与している絶大な力を発揮する無意識の心が、「私の所有者は、『やればできる事だから、それをやるぞ』とする思考しているから現実化してあげよう」と強く支持してくれる。だからこそ、いわゆる成功者は、思考は現実化する、その通りの人生を進めると思考とそれが表れた行動つまり現実との相関性からしてそう推論できる。


その一方、「思考は現実化する」ことと現実との違いを創ることをなし得ていらっしゃる方々も散見される。つまり、思考は現実化するのではなくて、思考は現実化しないという現実化をなされている方々に出会うことが頻繁にあった。

思考と言うと雲をつかむような感触だが、「言葉を使わずに何かを思考して下さい」と言われたその瞬間に「それってどうするのよ」と言葉を使い始めることが自覚される事からして、思考はつまり言葉であるとできるのは自然なこと。

その事からして、思考は現実化する事とそれは現実化しない現実との違いを創る違いが見えて来るようではないだろうか。そう、以下の様にその違いをハッキリとした感触として覚え始められる。

例えば、たわいもない例だが、「夕方6時10分に○○で会おうね」とする思考の現実化を目論んだとする。ところが、そのような目論見にたいして、「ご免、チョッチ遅れる」と言うことを繰り返す人が後を絶たない。

そうする面々は、会合に限らず、仕事でもやればできる書類作成が締め切り通りに決してできないのではなくてやらなかったり、私事でもやればできる部屋の片付けが絶対に不可能ではなくて「何かぁ面倒だから」と明確な意志をもってやらなかったりする。それらの事象は、できない事ができている全くもって実に有能な証左なのだよ。


その結果に対して、「それって、本当のオレ・アタシじゃないから」と言うような言い訳を思考は現実化を確実に支えてくれる強力な無意識の心は「この人は、言ったことつまり思考を現実化させない現実化をするのだな」と言葉裏腹が繰り返される度いに、無意識の心が得意とすることの1つである一般、つまり「思考は現実化しないのがオレ・アタシの現実化」という絶大な信念の形成を通じて確実に学習しそう学んだとおりに現実化してれる。

確かに、言葉裏腹としての思考は現実化することをご本人はお望み出ないだろう。しかし、そうだとしても結果からすると、「オレ・アタシは言ったことと逆のことは現実化する」とした現実化がものの見事に確かな感触を持ってなされている。

そうなるのは、思考つまり言葉とは違う事をする、すなわち言動不一致あるいは嘘つきが、そうするご本人をして思考は現実化する事と現実との違いを創る違いを創らせるからだ。

それからして、思考は現実化することをもしお望みの諸氏におかれては、けっして嘘をつかず行わない、すなわち思考つまり言葉をその通りに現実化する、そうすることの要諦はやればできる事はやれるように取り組む対象を細分化する事であることを繰り返すにしても、言動一致を大切にされることをここにご提言を申し上げたい。


そう言えば、うちの国では、言動一致が当たり前になって久しい。周辺情報からしてある事案に深く関係していると思われる公人が「それに関係していたら職も議員も辞職する」と公言しつつもそれらに恋々としたり、それに深く関係していた情報が公開された事後に「贈収賄に関係していたら辞任する」と別の言説を述べて現職に以下に恋々となさっておいでだ。まさに、言動一致の極みで、これはこれで見事な現実化の典型だ。

思考は現実化する事と現実との違いを創る言動を世に知らしめている国家の最高機関の事例については、これからうちの国を思考は現実化することを通して支えてくれるこれからの世代への影響を考えて深く眉間に皺を刻む次第だ。

SNSの中、捜し物お助けグッズが目が留まる。

そのグッズは、商品につけられるタグ(下げ札)の様なもので、置いた場所を忘れて捜し物にされやすい財布やポーチ、あるいはキーホルダーに偲ばせておく小物だ。

その小物は、自宅でしばしば置き忘れにされやすい財布などに偲ばせて置けば、スマホと連動してそれ自身から発せられる音で置き忘れを見つけることを助ける。逆に小物と連動して捜し物を助けてくれるスマホの在処が分からなくなっても大丈夫。

例えば、キーホルダーに取り付けた先の小物を押せば探しているスマホが音を発するので探しやすい。他には、仮に先の小物を偲ばせた財布やキーホルダーなど落としても、その小物を使っている良心的な人に落とし物が拾われたならば、スマホを介してその在処が分かる仕組みになっていると言うのだから実に便利なものができたものだ。

なるほど、実に便利な小物が創られたものだ。特に、後の様な落とし物をした場合は、多いに助かりそうだ。しかし、落とし物が必ず手元に戻る訳ではない。

先に書き付けたように、落とし物を拾った人に条件がつく。その人は旅先で落とした物が無事に手元に戻ったことに旅行者が感謝できるお国柄にあることだ。例えば、うちの国のように、道ばたにおかれた自動販売機が無事で、遺失物が交番に届けられるような。

他方、冒頭の小物が自宅での捜し物を助けてくれる事には素直に頷けない。そもそも大事な財布やキーホルダー、スマホなどを頻繁に探す必要がある事態に自らをおくのか。それがうまく理解できない。

自宅での捜し物に要する時間を少なめに見て仮に1日に10分を要する人は、1年間では3650分つまり60.8時間、約2.5日の時を費やす。10年間で考えると、25日も自宅で探し物をしていると想定できる。信長流に人生50年とすれば、125日も物探しに使ったらと取り返せな時間を浪費する。

捜し物のみにそれだけの時間、日数いや人生を費やしている自分の様子を考えて見て欲しい。逆に、それを旅行や趣味、自己研鑽に使って得られることを考えてみるとどうだろうか。両者の落差に唖然とするだろう。そうでなくても、「もう沢山よ」と捜し物に貴重な時を費やす自分に怒鳴りたくなるはずだ。

そもそも、人は折に触れて捜し物をする状況に自らをどのようにして陥れるのか。端的に言えば、無計画に、行き当たりばったりに、その時々の中でのみで先のことを考えずに、つまり時を通すことをすることなしに、大事な持ち物を扱う事によってだ。

例えば、出先から自宅に戻ってリビングのソファーに腰をかけるやいなや、次にまた出かける時に間違いなく必要となる玄関の鍵や車の鍵を束ねたキーホルダーを後になっても探せるかのように、手近な場所にポイと置く。

恐らく、先の様な身振りを行う人は、読み終えた新聞や雑誌なども同様に手近な場所にポイと置く。すると、最初に置いたもの、例えばキーホルダーは新聞や雑誌などに埋もれてしまい、キーホルダーも時を経て必要な時にいたって目出度く捜し物に成りはてる。

もちろん、時を通さずして取り扱う諸々のもの、例えばテレビのリモコンやスマホなども同様の事態に置かれているはずだ。だからこそ、1年でみると週末旅行に十分な時間である2.5日もの間を捜し物に費やしている訳だ。

そうだと認められるならば、少なくも自宅で探しものをせずに済むこと、換言すれば、少なくとも自宅で使いたいものを必要になった時に直ぐ見つけられるようになることは、どうしたらできるのだろうか。

その答えは、「私がこれを次に使うのは何時かな」と自問することとして師匠のバンドラー先生は教えていた。例えば、キーホルダーに関してこれにならえば、「私がキーホルダーを次に使うのは何時かな」とキーホルダーをポイする前に自問するのだ。

仮に、「買い物で出かける時ね」と自答できたとすると、その答えに合わせてキーホルダーを手近な場所に放り投げずに、バックの中に置いたり、玄関口に置いている小物入れに入れたりして置こうとも考えられる。

そのような自問自答は、要するに行き当たりばったりで身振りを執り行うなくて、先の自問が暗示するように先の事を見通して、つまり時を通して生きることを習慣化する必要性を諭しているのだよ。

もちろん、その事を習慣化すると聞くと、「何だか面倒くさくてできない」とのお嘆きがあることは承知できる。しかし、本当にそれができないのだろうか。それができない事はない、否、ズバリできるはずだ。

例えば1日当たりで10分もの間、「もう出かけなきゃイケないのに、私って、鍵をどこに置いたのよ」とイライラしながら探すことを毎日、毎日、ウンザリしながらも続ける人、あなたはそうし続ける極めて不愉快な毎日を送ることができている絶大な能力からすれば、捜し物が招く人生の困難さを前もって解消するチョットした習慣を身につけることなど造作もないはずだから。

なるほど、「そんな難しそうな事ができるよりかさぁ、さっきのグッズを使う方が簡単にできそうじゃない」とお考えだろう。しかし、そのお考えで本当に良いのか、さあどうだろうか。

冒頭の小物は、その名前からすると、トイレや流し場などの壁面に貼り付けられる焼き物のようなグッズ。だから、財布に入れたりキーホルダーにつけたりもできる。その一方で、捜し物を助けるサービスを受けるために面倒くさいアプリ設定をして、それを使い続ける為のお金も払い続けることになる。

更には、例えば、お財布用に1つ、ポーチ用にもう1つ、キーホルダー用にも更に1つと先の小物を必要とし続ける事になるだろう。だって、そうすれば便利そうなんだもの。他方から見ればサービスを提供する側に先の小物が増えることに相関したお金を払い続ける事になるのは、楽をのぞむ人間の性からして、じつに自然な成り行き。

捜し物を助けてくれる小物を使う続ける人生とは、逆に見れば、小さな焼き物に我が身を貼り付け続ける誠に困難な人生だとも見られないだろうか。または、それらの小物に生活を依存させる人生は、小人たちから体中をロープでがんじがらめに拘束されて身動きができないガリバーのようにも思える。

そのような事も想像して見ると、後で捜し物をせずに済むようになれる先を見越したチョットした習慣も身につける、つまり身の回りの大切なものを取り扱うに際しても時を通して生きることを心がけることは極めて簡単にできるはずだが、ここまで読み通したように賢明なあなたはどうお考えだろうか。

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