機能する学習: 2008年12月アーカイブ
成功に興味を持ち続けてきた。
もちろんまだ成功の途中にある。
だから、自らも学び、人にもそれをお伝えしてきた。
お伝えする形は、講座や日常業務の中と様々な姿を取る。
3日や4日間の講座を担当すると興味深いことにたびたび遭遇する。
その興味深いことを以下に述べよう。
ご参加の方が講座にご参加の意図は大きくいえば「成功」を目指す。
もちろん、個人的なことから公にかかわることまでと成功は多様だ。
その成功を手に入れたいとして参加費を払い、貴重な時間を投資される。
ところが、講座が進行するとある時から別の成功を果たす方が現れる。
その人は、「参加の目的とは違った成功」を目指す。
もちろん、そうなることを避けるために予防策をとる。
予防策として、全ての実習に参加することや、成果を作る秘訣を学ぶ。
だが、ある方は自分が成功するのに不可欠な実習に参加しない。
または、自らが参加を決めた講座自体を途中でリタイヤする。
そのやり方は、体調を崩す、電車に乗り遅れ遅刻をする。
あるいは、居眠りをする、課題をやり忘れる、落ち込む。
その創造性の多様さは実にみごとなものだ。
そうする理由は、ずばり「失敗することに成功する」こと。
講座において、実習に参加しない、居眠りをする、などの結果は明らかだろう。
人生に新たな可能性を開くといった成功とは真逆の結果が来る。
こうして、ある人は「失敗することに成功する」。
では、なぜそのようなことをするのだろうか。
確かに、その人が心理や知的に機能していないからかもしれない。
しかし、その人は全くして機能していると申し上げて間違いない。
人は決して故障などせず、全く常に機能し続けているからだ。
「人は完璧に機能する」とNLPの前提は教える。
と見ると失敗することに成功する人は、失敗することに機能している。
つまり、機能していないのではなく、機能が成功ではなく失敗に働いている。
驚くかもしれないが、結果はそれそのものだ。
実習を、講座をネグレクトすれば、確実に参加目的を果たせない。
それを目指して自らの全機能を傾注すれば、確実に失敗を果たすことができる。
なぜそうするのかが興味深い。
長年それを探求して1つの仮説に至った。
失敗することに成功する目的は「愛を求める叫びを発すること」である。
分かりにくい言い回しをして済まない、つまり「私を見て」がその本義だ。
自らが失敗し傷つくことで注目を得ることが、失敗を目指す目的である。
1つの情景を提示する。
母親に叱られて機嫌を損ねた幼児が時になすことがある。
例えば、母親の目の前で不意にミルクをこぼす、急に兄弟姉妹を叩く。
そう言う事態は必ずや、母親が自分以外のものに心を向けているときだ。
弟や妹に母親の愛が注がれているときに偶然と思えないタイミングでおきる。
それをなす幼児の意図は「ママ、私を見て」の叫びを届けることだ。
幼児が、母親の注目をして自らへの愛を感じるのは、健全である。
この場面でも、人は全く機能している。
機能の方向は愛情の獲得にあるが、ただその方法に失敗がある。
だが、成功することに手段を問わないレベルにおいては、成功している。
話しが迂回した。
講座の場面に話しを戻そう。
つまり、失敗することに成功する人は「愛を求める叫び」を出している。
換言すれば、注目つまりストローク、承認を欲求している。
「私はここにいる」「私はここにいた」、そのことを認めて欲しいと。
幼児の「ママ、見て」と符合していると見れないだろうか。
そう、体は物理的に大人であっても、心の中に幼児がいるのだ。
そのことをして、退行現象だとくくって話しを終わらせたくない。
人はいくつになっても自らの内部に幼子を宿している。
交流分析は「自然な子ども」と呼称する。
最近のセラピーは「インナー・チャイルド」という。
その幼子は私たちの根幹に宿しつつ、強力な影響を与える。
時には輝かしい創造性を発揮し、その創造性は黒い影をなすこともある。
影をなすことが、「失敗することに成功する」ことである。
では、どのようにすれば良いのか。
これまでの理路から心にいる幼子を支配することとも考えられる。
しかし、それで上手くいかないことはお察しの通りである。
支配が上手くいくのなら、講座をネグレクトする人はでない。
それができないから、「失敗することに成功する」。
1つのご提案ができるとすれば、折にふれて自分の俯瞰することだ。
つまり、自らを上空の視点から観察し、いま何をなし、なしていないかを見る。
そこから真の成功にむけて自らが機能するように、新たな選択をする。
もし承認を求めたければ、肯定的な形でそれをなす事を意図する。
肯定的な形をとることが困難なら周りに援助を求める。
援助を求めることは、決して失敗ではなく、成功への一歩だ。
成功の途中にありながらできることがある。
成功することに成功しているか大人の目で己を止まって観る。
「失敗することに成功したいのか」と自らに問いかけることはできる。
そうして、自らを成功することに成功するように機能させる。
さて、いまあなたはどうだろうか。
失敗すること成功しつつあるだろうか。
それとも成功することに成功しつつあるだろうか。
是非とも、そのことを始めた当初の目的に立ち戻って頂きたい。
21日に講座を開催した。
今年、最後の試験勉強術講座だった。
師走の日曜日、4人の方がご参加になった。
考えてみれば、忙しい週末のご参加であるからありがたい話しである。
その忙しさはクリスマスの準備や年末の大掃除と大変なものと拝察する。
その状況にありながら優先的課題として試験勉強を考えている人たちがいた。
その人たちが今回のご参加の4名である。
その中にはなんと北海道からのご参加もあった。
いま大企業における大規模な人員削減やリストラが喧伝される。
この社会状況で自分を守れるのは自分しかいないとお気づきなのだろう。
もちろん資格取得が必ずしも盤石の将来を約束するわけではない。
しかし、資格があればないよりも他者に較べて優位性を保てるのは事実。
そうでなくても、資格を取得した経験そのものが自信になり力になりえる。
募集を締め切った時点で本講座は7名のご参加で開講する予定であった。
だが、1名の方が師走の状況において参加費のご入金を失念されていた。
ご確認のお電話をを申し上げると次のようであった。
「忙しくてキャンセルの電話をできませんでした」とのお言葉。
なるほど。
忙しいとは心を忘れると書くから納得のいく話しである。
しかし、心を忘れたとして自ら選んだことを失念して良いのだろうか。
忙しい状況でも事をなし得る人となし得ない人にはやがて違いが訪れるからだ。
その違いは状況に左右されずに事をなし得るかどうかである。
換言すれば、状況主導の人生か、自分主導の人生かとも言えるだろう。
または、状況を創る人になるか、状況に自分を創られる人になるか。
人生は常に選択の連続である。
その選択に善し悪しはない。
が、いずれにせよ結果は大きく違ってくる。
その結果が出てから、「私の人生はこんなんじゃない」と泣き言をいっても遅い。
遅いがそれが人生における選択の結果というものである。
さらに言うなら選択の結果は常に学習される。
この場合の学習は「自ら決めたことは形にならない」である。
称揚していえば「自ら決めたこと、つまり思考は現実化しない」である。
学習は言い換えれば、習慣の形成であり、つまりは癖の成立である。
この事例は、自分がやろうと思ったことは結局は自分は「やらない」となるのだ。
勝とうと思っても勝てない、つまり負け癖がつくことになる、とも言える。
大事なので1つ申し上げる。
やれないのではなく「やらない」のである。
NLPは「人は常に十分に機能している」を1つの前提にする。
その前提からすると人は能力がないのではなく、能力がないように振る舞う。
その事からやらないことを「やれない」という言葉に置き換える。
出来事を言語化する過程で歪曲・省略、一般化のどれかが起こっている。
「やれない」と言う方には「やれないのか、やらないのか」とお聞きする。
または「何が止めているのか、誰が止めているのか」ともお聞きしたい。
そして、もう2名の方は身内のご不幸を理由にご欠席となられた。
ご不幸についてはお悔やみを申し上げるばかりである。
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りする。
この事から二十数年前のあるセミナー風景を思い出した。
セミナー参加者がセミナー2日目に遅刻をした。
遅刻の理由は電車が遅れたとのことであった。
なるほど、仕方のない理由であろう。
それに関して講師が聞き慣れないことを口走った。
「電車が遅れたのはあなたのせいだ」と厳しい口調で述べたのである。
その言葉に当時は何と理不尽なことを述べる講師か、と憤ったものである。
しかし、今はその理不尽な言葉が極めて理を尽くした言葉に聞こえるのだ。
遅刻をした人が電車を遅らせたというのはレトリックである。
講師が言いたかったことは「遅れる電車に左右されたのは誰か」である。
つまり、行動の源、その結果を作った本人の準備なりあり方を問うたのだ。
もし遅刻をした人が、セミナーにもっと本気で参加をするならどうだろう。
たぶん、そのリスクも想定して余裕のある行動を取ると拝察される。
こうして理路をたどると次のように言えないだろうか。
理不尽な言葉を述べた講師が述べたのは「自分の人生に責任を持て」である。
講師業を営む者としてこの言葉が常に心のどこかにとげのように刺さっている。
参加者がいる限りどんなことがあっても講座の会場に行くのが筋目だからだ。
参加者の方は時間や資金を都合し、さらに決意もして会場においでになる。
だから「親や身内の死に目に会えないな」ともしばしば思う。
身内には本当に申し訳ない事であるが、それが講師という生業である。
閑話休題。
年末の忙しさにかまけて自分の課題を忘れるのは人の常。
あるいは年が改まって事を起こそうと先延ばしすることも同じ。
双方とも決して怠惰からそうするのではなく、ある種の勤勉さからそうする。
その勤勉さは変化を求めながら変化を先のばしにする自己防衛を表している。
人は成長を求めながら成長を避けようと常に勤勉である。
それについてはブログで諸所に述べてきた。
また各種の講座でも年寄りの小言のように繰り返してきた。
だが、なかなかご理解を賜ることができないことは残念な事である。
しかし、残念がってばかりはいられないので来年も声を発し続けるであろう。
さて講座も好評のうちに終わった。
ご参加の方からは様々な喜びの声を頂いた。
試験勉強に関して自信を持たれた、確信を深められた、納得された。
それぞれに試験勉強に前向きな姿勢で講座会場を三々五々後にされた。
そのあと共同開催者の萩原講師と矢嶋講師を交えて忘年会を催した。
久しぶりに馬刺しや美味しい手羽先を頂きながら酒を酌み交わした。
互いに一年を振り返り談話風発して楽しく一時を共有した。
また、来年も試験勉強術講座を開催する。
もっと多くの方に試験勉強術を通して様々な思いを伝えたい。
気づけば長文になったが、自分の選択について考えていただければ幸いである。
2009年の合格を目指す試験勉強術は2月11日に開催。